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評論家・宇野常寛氏が語る『シン・ゴジラ』-この映画は99%の絶望と、1%の愛でできている

intarview top-image 作品紹介

シン・ゴジラ

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東京湾内羽田沖で、無人状態のプレジャーボートが見つかった。そのとき、海面が大きく揺れ、大量の水蒸気が噴出。東京湾横断道路・アクアトンネル構内は洪水に巻き込まれる。局地的地震か、海底火山噴火か、東京湾内は封鎖され-

邦画作品では12年ぶりとなる「ゴジラ」シリーズの実写映画化。「新世紀エヴァンゲリオン」の庵野秀明が脚本・編集・総監督を、『ローレライ』『日本沈没』の樋口真嗣が監督・特技監督を務め、300名を超えるキャストが出演することも話題に。公開後、クオリティの高さが熱狂を呼び、現在も日本全国に『シン・ゴジラ』旋風を巻き起こしている。

この人に聞いた

宇野常寛(うの つねひろ)

批評家。批評誌「PLANETS」編集長。1978年生まれ、青森県出身。会社員時代を経て、批評誌「PLANETS」を発行し会社化。「ゼロ年代の想像力」、「リトル・ピープルの時代」など著書多數。有料メルマガ(ブロマガやnoteなどマルチプラットフォームタイトルで展開)の発行、京都精華大学非常勤講師、立教大学兼任講師、J-WAVE「THE HANGOUT」月曜ナビゲーター、日本テレビ「スッキリ!!」木曜コメンテーターなど、その活動は多岐に渡る。

ブロマガ(http://ch.nicovideo.jp/wakusei2nd/blomaga)
note(https://note.mu/wakusei2nd/m/mdc84f7854fad)

わたし:大きな話題を呼んでいる『シン・ゴジラ』ですが、初めは観るかどうか迷っていました。というのも、実はこれまでに1作も「ゴジラ」シリーズを観たことがなくて…。

宇野さん:一番最初に言いたいのは、僕は今回の『シン・ゴジラ』は、特撮や怪獣映画に全然関心のない人にこそ観て欲しいと思っているということです。

実際に、特撮や怪獣映画にまったく関心がない人が観ても、十二分に面白い映画だと思います。

わたし:「これだけは知っておいた方が、さらに楽しめる」というこれまでの「ゴジラ」シリーズの知識、みたいなものはありますか?

宇野さん:もちろん、昔の怪獣映画に詳しいと、ニヤリとするような細かい演出はいっぱいありますよ。ただ、そういったことは、これから先に山のように出るであろう関連本や関連サイト、そしてゴジラの直撃世代である、昭和の特撮オタクの熟年層に任せておくとして、僕はもう少し一般的な「面白い映画を見たい人」に向けてお話するのがいいかなと思います。単純に1本の映画として、ここ数年間、下手したら10年間ぐらいの、邦画のNo.1なんじゃないかっていうぐらいの傑作だと僕は思っているということです。

わたし:宇野さんにそこまで思わせた『シン・ゴジラ』の魅力とは一言でいうとなんでしょうか?

宇野さん:一言でいうなら、ゴジラっていうファンタジーの存在を使って、なかなか日本では成立しづらいポリティカル・フィクションというものを成立させた、というのが一番大きいと思います。

わたし:ポリティカル・フィクション、とは政治的な風刺を交えたSF作品というイメージでしょうか。

宇野さん:怪獣映画っていうのは、もともと戦争映画の代替物という側面もあるんですよね。怪獣というファンタジー的な存在を経由することで、戦争の記憶が生々しく残る時代には正面からあつかうことが難しかったものを描いていたところがあると思うんです。たとえばそれは、戦争が人々に与えた巨大な力への恐怖であると同時に陶酔感や破壊の快楽でもあったと思うし、あるいは戦後の復興から高度成長へ向かう時代の空気への、こんな嘘くさいものは壊れてしまえ、といった気分だったかもしれないですね。

わたし:そうなんですね!

宇野さん:怪獣映画がブームになって、シリーズが続くうちにどんどん低年齢化していって、怪獣プロレスと言われるような怪獣映画のイメージを作っていったのは間違いなくて、一般的にはその頃のイメージが多分強いんだろうと思うんですよね。僕はこっちはこっちで好きですけど。

ただ、技術的なルーツはもともと戦時中の戦意高揚映画だし、怪獣映画と政治って組みあわせはむしろ原点回帰なんですよ。

わたし:ゴジラは単純に怪獣同士の戦いを楽しむものばかりかと思っていました…。

宇野さん:もちろん、怪獣同士のプロレスが全面に出たものが大半ですよ。

わたし:これまでに作られてきた「ゴジラ」シリーズも、戦闘シーンばかりが全面に出たものばかりではないのですか?

宇野さん:ここまで政治に寄せきってやり切ったのは多分『シン・ゴジラ』が初めてなんですけど、人間ドラマみたいなものが、サブストーリーとしてある程度と流れているものは、昔からそれなりにはありました。

わたし:第1作の『ゴジラ』はかなり政治に寄せられたものだったのでしょうか?

宇野さん:第1作は第五福竜丸事件(※)がモチーフになっているので、当然戦後日本のいびつさ、といったものは色濃く背景にあるわけですよ。ただ、『シン・ゴジラ』のような意味での「政治」とはちょっと違いますね。核兵器が象徴する人間の業といったテーマのほうが前面に出ていると思います。

(※)第五福竜丸事件…1954年3月1日に、マーシャル諸島近海において、アメリカ軍により行われた水爆実験に遭遇し、第五福竜丸が放射性降下物に被爆した事件。日本国内で反核運動が萌芽するきっかけになった。

わたし:そういった意味では、第1作の『ゴジラ』は観ておいた方が、今作のゴジラも楽しめますか?

宇野さん:そりゃあ、特撮ファンとしては観て欲しいですが、このサイトではむしろ観ていなくても十分楽しめることを強調したい。大事なのはむしろ「これは怪獣映画だ」という色眼鏡で見ない気持ちではないでしょうか。その気持ちがあれば、まったく知識がなくても楽しめるタイプの映画ですよね。

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わたし:確かに「怪獣映画だから」と観るのをやめなくてよかったと思いました!

「ゴジラ」シリーズ以外では、これは知っておいた方が楽しめる、『シン・ゴジラ』のルーツのような作品はありますか?

宇野さん:今回のゴジラに明確に影響を与えた大事な作品として「機動警察パトレイバー」っていうアニメがあります。 まあ、この「機動警察パトレイバー」自体が昭和の怪獣映画の影響を受けている作品なんですけどね。 これはレイバーという人型の重機が普及している社会を舞台にしたアニメで、このレイバーを運用する警察の部隊、つまりパトレイバー中隊の活躍を描いています。

このパトレイバーの押井守監督が手がけた劇場版が今回の『シン・ゴジラ』の大きなルーツのひとつですね。

「機動警察パトレイバー」では「レイバーが普及した社会」という、ひとつ大きな嘘をつくことによって、現実の日本社会ではなかなかリアリティのある設定をつくりづらい東京での大規模テロ、といった題材をあつかうことに成功しているんですね。

パニック映画もポリティカル・フィクションも、現代日本を舞台にしたものは現実の日本をそのまま舞台にするとかえって嘘くさくなってしまう。やはりアメリカの核の傘の下で平和を謳歌してきた当時の日本に、警察や自衛隊が大規模動員される、といったリアリティが社会にないんですよ。

でもここに「レイバー」というアイテムをひとつかませると、大きな嘘をひとつつくことで小さな嘘が気にならなくなる効果がある。この手法で日本で巨大なサイバーテロが起こったらどうなるかとか、日本である種の軍事テロのようなものが起こったらどうなるかということをシミュレーションしたのが「機動警察パトレイバー」の映画版です。

わたし:なるほど。

宇野さん:そして、さらにその影響を受けているのが「踊る大捜査線」ですよ。「機動警察パトレイバー」では日本の警察っていう巨大官僚組織のいびつさを詳細に描くことで、リアリティを出して、重層的なドラマもつくっていったのだけれど、この部分を踏襲したのが「踊る大捜査線」です。

それと、もう一つが脚本に「パトレイバー」シリーズの伊藤和典さんが参加した「平成ガメラ」シリーズですよね。 「機動警察パトレイバー」自身が、昔の怪獣映画の影響を受けているわけなんですけれど、そのノウハウをもう一回怪獣映画に呼び込んだのが「平成ガメラ」シリーズで。 あれは戦争の比喩として生まれた怪獣を再定義したところが新しかったと思うんです。

かつてのゴジラって、非常に政治的で、水爆の、核兵器の比喩だったわけですよ。第五福竜丸事件がモチーフですからね。

しかし、時代とともにそれが難しくなっていくわけです。戦争の記憶も社会から薄れていくし、そもそも第2次世界大戦のような総力戦のイメージから、現実の戦争もだいぶかたちがかわってしまった。 70年代には公害の比喩としての怪獣、というコンセプトもあったのですけれど、この90年代の半ばにつくられた平成ガメラシリーズは、怪獣を環境の比喩にした。要するにガメラは地球の白血球のような存在で、人類の敵でも味方でもない。だからたとえば宇宙怪獣がやってくると、地球の白血球であるガメラはそれを潰すために戦う。このガメラと他の怪獣の戦いに巻き込まれた日本で、自衛隊の隊員や政府の科学技術系の機関の職員ががんばるっていう人間ドラマっていうのを掛け合わせたのがガメラシリーズなんですよ。

わたし:まったく知りませんでした…。

宇野さん:僕は今回の『シン・ゴジラ』はこの「平成ガメラ」シリーズの正当なアップデートだと思っています。

ただ、この「平成ガメラ」シリーズはコンセプトを若干完結できなかったところがあって、シリーズ後半になってくるとどうしてもドラマを作りきれなくて、続編の中で、ガメラをどんどん人間側に寄せていってしまうんですよね。子どもたちの祈りでガメラが復活したり、少女と交流したりとかする。

これだとせっかくのガメラを非人格的なシステムとして描く、というコンセプトにブレが出てしまう。なんでこうなったのか、僕なりに考えたんですが、たぶん個人と世界、小さなものと大きなものをつなぐために、大きなもの、つまりガメラの側が人間に歩み寄らせるしかなかったと思うんですね。

「平成ガメラ」シリーズの描写って現場の自衛官や技官に集中していて、特に権力もなく大組織も率いていない、もっといってしまえば政治的ではない現場の人々の物語なんですよ。僕はまあ、そこが好きだったりするんですが、彼らの「がんばり」を描くだけでは、ガメラが象徴する巨大な力、世界の問題にアクセスするのが難しかったんだと思う。公務員のおじさんはがんばっているんだぞ、的な自分の問題と、人類と地球環境はどうあるべきか、怪獣という巨大災害にどう対応するかという世界の問題がつながっていない。だから後者の、ガメラのほうが人間に歩み寄って心を開く、という展開が必要だったのだと思うんです。

そこを新しい方法でちゃんとやりきったのが実は今回の『シン・ゴジラ』だと思うんです。

わたし:怪獣を環境や災害の比喩として描ききる、ということでしょうか?

宇野さん:そうです。そのために庵野秀明がやったのは、正面からポリティカル・フィクションをやるということですね。政治家と官僚を主役にして、あるべきリーダーシップと組織論、そして戦後の思想的な総括を恐れずにやる。ここに尽きます。

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わたし:今回のゴジラはズバリ何を表していたのでしょうか?

宇野さん:明らかに「もうひとつの3.11」ですよね。初代ゴジラはもうひとつの原爆だった。あるいは東京大空襲の再演だった。同じように、今回の『シン・ゴジラ』っていうのは3.11とその後の原発事故が東北と福島ではなく、東京を襲っていたらっていうシミュレーションでもあるわけです。

そして明らかにこの映画は「3.11の原発事故が東京を直撃していれば、日本はちゃんとスクラップ&ビルドできたのかもしれない」という強烈な風刺が根底にあると思います。そのあり得たかもしれない現実を描くっていうフィクションの力というのを最大限に引き出す存在が今回のゴジラですよね。みんな忘れているけど、怪獣ってもともとはそのために生まれてきたものなんです。

わたし:政治的な意味合いについてはいかがでしょうか?この映画が今の時代に作られた意味だったりは?

宇野さん:あの映画を観て、映画館を出た直後に「傑作だ」とTwitterでつぶやいた瞬間に「自民党の支持者がみんな喜んでいる映画だ。」と罵倒リプライがあったんですよ。日本って怪獣映画のひとつ感想を呟けない国になっているんだなって、なんだかすごくがっかり来ちゃった。映画の虚構の世界が充実していただけに、現実の日本社会のショボさを目の当たりにしちゃったので。

こんなふうに、左翼の人たちが、この映画は安保法制推進の9条批判映画だと言って怒っているけれど、それは難癖だと思う。この映画はもうちょっと複雑ですよね。 確かに見ようによっては緊急事態法の必要性を訴えている映画に見えなくもないですが、ただ僕はあれはもう少し政治的には中立だと思っていて。あそこで何か自衛隊が民間人を巻き添えにしても発砲すべきかどうかみたいな議論とか、自衛隊の法整備が整っていなくてまごついてしまうことへの批判意識とか、ああいった描写は左翼の人は脊髄反射的に反発するだろうけど、ああいった要素が今の日本にはびこっているネット右翼とか、ヘイトスピーカーとかと結びついているかというと、そんなことはないと思う。

あそこで描かれているのはむしろ20世紀的な左右のイデオロギーを排してプラグマティックに、実効性のみを基準に防衛のあり方や権力を考えてみようという発想ですね。90年代前半の新保守系リアルポリティックスの発想に近い。

わたし:作り手の政治的な思考の入ったものではなく、実際にこういうことが起こったらどうなるのか、というリアルな描写ですよね。

宇野さん:そこから出発して「政治」を考えよう、という発想ですね。今はオタクというとネット右翼の温床のようなイメージがあるかもしれないけれど、90年代前半のオタクってどちらかというとリアルポリティックスで考える人が多かったイメージがあります。世の中を個人の人生に意味を与えてくれる「物語」としてではなく、単に情報の集積として見ようっていうクールな視点ですね。当時は世界を物語的に見ようとするマルクス主義的な発想の亡霊が上の世代に多くて、そこに対する反発が若者にあったことも、当時のオタクたちのリアルポリティクス的な発想を与えていた。『シン・ゴジラ』でいうと高橋一生的な態度ですね。

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宇野さん:この映画はこういった「あの頃のオタク」たちが、世界を「物語」としてではなく「情報」として受け止めていたころのオタクたちの知性こそが今の日本に必要だ、というメッセージを発しているのだと思います。オタクだったら世の中を物語としてみるのではなく、情報の集積として捉えて、プラクティカルに判断することに回帰すべきだ、と。

僕自身は、そういった意味で非常に共感したところがあるけれども、さっきもいったように実はそれ自体は80年代から90年代前半のモードだと思うんですよ。実際に、当時の保守論壇は今みたいに物語的ではなかった。というか、そうじゃない人たちがたくさんいた。愛国とか民族とか伝統とか、中国侵略は正当だったとか、親学とか、そんな妄言ばかりじゃなかった。いわゆる新保守と言われる当時の若手の政治家や論客には、リアルポリティクスの観点から9条の改正や、柔軟な解釈改憲を主張している人たちがたくさんいて、彼らが若者層の支持をそれなりに得ていた。

それが90年代後半の「新しい歴史教科書をつくる会」あたりからおかしくなったと思うんですよ。景気の後退、ネットの普及、団塊ジュニアの加齢、いろいろ要因はあると思うのだけど。この辺で一気にオタクと保守論壇がトンデモ化して、気がつくとインターネット上に萌え日の丸アイコンのネット右翼があふれて、街頭にはヘイトスピーカーと歴史修正主義者が跋扈するようになった。

だからこの映画は今から20~30年前の新保守的なリーダーシップが政治を救う、という話でもある。いまの自民党の改革派や、民主党の前原グループとかのルーツですね。

左翼の人はそこが気に入らいないみたいで、「政治家と官僚が主役の映画は弱者民衆切り捨てでけしからん」みたいにいろいろ難癖をつけているけれどあれはこの映画に問題があるんじゃなくて、左翼の人達の内面に問題があるんだと思う。今の日本の左翼にはね、本当に批判力を持った「現実的な理想主義者」が嫌いな人が多すぎると思う。なぜかというとたぶん矢口蘭童みたいな人がほんとうにいると、自分たちのね、「理想主義者であること」をイイワケに反対だけして何の対案もないまま「権力と戦っている自分」にウットリしているセコい生き方が浮き彫りになっちゃうからね。でもさ、そこは素直に認めた上じゃないと建設的な批判もできないと思うよ。平成の改革勢力のやり方だけが「正解」だとは僕も思わないけれど、ある希望を語ることが別の希望を潰すこととイコールではないしね。

わたし:映画の中で、長谷川博己さん演じる内閣官房副長官の矢口らが、さまざま事実を並べても「そんなことはあり得ない」と一蹴されてしまうシーンがありました。また、会議ばかりで何も物事が進まない状況に、主人公たちが苛立つ描写もありましたね。思わず「あるある」と頷いてしまうシーンでした。

宇野さん:なので、要するにこの国は20~30年まったく進歩していなかったんだという強烈なアイロニーを抱えた映画でもあるんですよ。決して「強い日本サイコー」みたいな映画じゃない。むしろ逆で「いまさら20年前の処方箋を示さなきゃいけないくらいグダグダなのがこの国の現実」「でも進歩の無さを認めた上で少しずつ前に進むしかない」という諦念とアイロニーの映画ですよね。

だから『シン・ゴジラ』で語られている政治性のようなものを結構20~30年前から言われていたある種の小沢一郎的「普通の国」論だって批判したがる人って多いと思うんだけど、僕はこの映画はもう一段階、いや二段階くらい深い映画になっていると思っています。

この変わらなさ、20~30年進歩せずに気がついたら、事実上二流国になってしまっている日本という現実を受け止める所からはじまって、そこから生まれる99%の苛立ちと、諦めと、それでもまだ残っている1%の愛と希望ですよね。99%の絶望の中で、それでも希望を語るには、前向きにどうしたらいいかっていうのが根底にある。

もし津波や原発が東京を襲っていて、原発が東京のど真ん中にあって、完全な廃炉には数十年を要する状態になっていれば、日本はもっと変われたのかもしれない、日本はスクラップ&ビルドをちゃんとできたのかもしれない、という「もう一つの日本」になっているのはそういうわけです。実際には、3.11は日本を大きく揺るがしたけれど、決定的には変えなかった。そこから今回の映画が始まっていると思うんですよね。それを怪獣映画を通して描くっていうことも、怪獣映画の出自を考えたら、まっとうなことなんですよ。

わたし:「ゴジラ」のルーツを考えると、たしかにそうですね。

宇野さん:逆に戦後日本っていうのは、ファンタジーを通してしか暴力や戦争の本質や、僕らの内側にある破壊願望についてほんとうの意味では考えることができなかった国ですからね。少なくとも文化レベルでは。

ですので、同じように日本人が正面から向き合えていないこの国の変わらなさ、巨大な負債を抱え込んでゆっくりと壊死していこうとしている現実--それは原発であり、この戦後社会そのものだと思うんだけど--それってたとえばメディアポピュリズムによる政権交代なんかで一気に解決することができなくて、じっくり付き合っていなくちゃいけない。そんな諦念とセットの希望のようなものを怪獣を通して描くっていうのは、実はいま戦後日本を総括する劇映画として実にまっとうですよね。「まっとうさ」をいまあえて提示するのが逆に面白くなっちゃっている状況をも映画に取り込んでいる点がいい意味で嫌らしいと感じました。 movie image

わたし:宇野さんにとって、ポリティカル・フィクションを成立させた今回の『シン・ゴジラ』の功績はなんだったと思いますか?

宇野さん:この映画のコピーに「現実 対 虚構」と書いてあって。僕はすごくいいコピーだと思いました。最近は、僕自身が虚構に物足りなさを感じていたんです。それは庵野さんの作品も含めてね。正直僕はエヴァの新劇場版にまったくノレていない人間なので。あれは全部90年代のエヴァンゲリオンの本人による良くできた二次創作の域を出ていないと思う。

初代のエヴァンゲリオンっていうのは、結局ロボットアニメっていう戦後日本を代表するファンタジーの破綻を表現することによって社会現象化したと思うんですよ。つまり後半どんどんメタフィクション化していって、エヴァンゲリオンという社会現象を批評することによって完結していったわけですよね。自己批評することによってね。それは何か、ファンタジーを通して物事を考えてきた、現実を考えてきた時代の終わりの象徴だと思うんですよね。

90年代後半っていうのは、冷戦が終わって、インターネットが普及し始めたころです。70年台にマルクス主義の敗色が濃厚になってからの四半世紀っていうのは、世界的に革命で「世界を変える」のではなく、どうせ世界は変わらないのだから文化の力で「自分を変える」モードだったのだと思うんですよ。だから若者向けのサブカルチャーが社会で特別な意味を持っていた。エヴァンゲリオンというのは、日本におけるそんな時代のどん詰まりに出てきた作品で、だから世界の問題がぜんぶ主人公の少年の自意識の問題の比喩でしかなくなっているわけです。

テレビ版のエヴァの最終回ってあれは当時良く指摘されていたけれど自己啓発セミナーそのものでしょう? あれっておもしろくて、結局世界の問題はただの心象風景の投影でしかなくて、自分の問題しか存在しないんだ、ってやっていくとああやって「とりあえず周囲から承認されたい」みたいな願望しか残らなくなってしまう。世界と個人、公と私をつなぐものが物語なんだけど。後者しかないなら自己啓発セミナーというありふれた現実で構わない、ってことをあの作品は結果的に証明しちゃっている。そこが僕はすごく面白いと思う。

これってオウム真理教の問題とも近くて、あれって80年代にその少し前からのオカルトブームや当時のアニメブームの影響が強い新興宗教だったわけですよね。ヤマトとガンダムとナウシカあたりに影響されて架空年代記的な世界観をつくっていた。そして世界を変えるのじゃなくて修行して解脱して自分を変えることを目標にしていたのだけど、結局それだけでは満たされなくて社会に打って出て、最終的には毒ガステロまで起こした。エヴァンゲリオンと同じ95年にね。大澤真幸さんがいう「虚構の時代」の終わりですね。革命とフロンティアを失って、高度資本主義の終わりなき日常を覆すのはもう無理だ、と思った若者たちが現実の世界を変えるのではなく虚構を通して自分の意識を変える方向に舵を切っていた時代の終わりが見えてきた。

実際にその後インターネットが普及していくと、現実に起こっているおもしろいことと、珍しいこと、知的に刺激的なこと、現実に発生している心を動かされることへのアクセスコストが何万分の一かに、はっきりいって限りなく0に近づいていった。YouTubeを10秒検索すればいい。そうするとほとんどの人間は虚構なんて求めずに、現実に起こっているおもしろいことを探すんですよね。わざわざインターネットを検索して刺激を求めるような冒険心のない人間でも、いま余暇の時間は友達や彼氏や彼女とダラダラLINEのやりとりをすることの方が楽しくて、よほどのことがないと虚構に、フィクションに関心を向けなくなっていっている。この20年は情報環境的に現実に虚構が敗北していった20年だと思うんですよ。

でもそれは誰が悪いわけでもなくて、単純にテクノロジーの変化としてそれが起こってるっていう。作家が悪いわけでもなければ、消費者が悪いわけでもなくて、単純にテクノロジーの問題ですね。逆にこの半世紀くらいが、映像作品を中心に人間が異様にフィクションを消費していて、それを共通体験にしていた例外的な時代だったと考えたほうがいいと思います。

ほら、いま、ハリウッドの興行収入ランキングもそうだし、日本で言うと紅白歌合戦も、20世紀後半に流行した共通の世代体験を温めるためのプログラムでうめつくされているでしょう? あれって当たり前の話で、今の現役世代はほぼ映画とテレビで圧倒的に大きな共通体験を作ってきた特殊な世代なんですよ。だからこの世代が現役世代の大半を占める現代では、ノスタルジィに訴える企画がいちばんコストパフォーマンスがいい。もう何十年かすると代わるでしょうけどね。今のティーンは僕達に比べてぜんぜん「映像」文化の支配力が落ちているだろうから。でも、彼らが社会の中核になった時に「映像」はエンターテインメントの中心には居ないでしょうね。ちょっと寂しいことだけど、仕方ないです。

だいたい今はもう一回世界を、現実を変えることが信じられる時代になっている。 現代では情報産業を中心に、グローバルな市場にイノベイティブな商品やサービスを投入することで「世界を変える」という考え方がすっかり支配的になっている。国家より市場が大きくて、オバマよりジョブズのほうが世界を変えていると思われている。正確にはそう信じられる先進国などの都市部の若い人たちと、新しい産業のグローバルな市場のゲームボードに乗っかれないので、国家というセーフティネットを生活的にも精神的にも必要としている人々に二分されていますよね。長期的にはグローバルな市場から世界を変えていく時代、短期的にはそのアレルギー反応としてのナショナリズムの時代だと思うんです。どちらにせよ、「世界を変える」モードなのは間違いない。

そんななかで、今回の『シン・ゴジラ』は久々にフィクションの逆襲を見たような気がしたんですよね。もちろん、この作品自体がいまの中高年のノスタルジィを基調につくられたのは間違いないと思うけれど、これまで話してきたようにフィクションを通してしか描けないものを久々に、かなりエグいところまでえぐり出してしまったのは間違いない。そのフィクションを通してしか描けないものっていうのが、この国の絶望的な、長すぎた戦後の本質みたいなものだったっていうのは、この国にとっては不幸なことだとは思いますが、映画にとっては幸福なことですよね。

まだフィクションのやるべきことは残されていた。なんか久々にフィクションに心を動かされるものがあったなっていうことですかね。

わたし:ネットが普及して、人はフィクションを気軽に摂取できるようになり、情報の中に篭ったようなイメージもありましたが…。

宇野さん:逆ですよ。逆、逆。今は間違いなく「現実」の時代になろうとしている。正確に言うとかつて虚構と呼ばれたものは現実の一部に回収されている。

それは一見情報産業であるところの音楽や映像でも変わらなくて、CDはみんな買わないけれどフェスや握手会には行きますよね?単に情報を摂取するだけではもうエンターテイメントとしてみんな物足りなくなってきている。逆にいうと20世紀の後半に情報を摂取するだけでエンターテイメントとして成り立っていたのは、それがめずらしかったからですよ。情報を放送で同時に消費したり、パッケージとして所有するという体験自体が非常にめずらしくて貴重な体験だったからで。今はこれだけネット上に事実上無料の情報が溢れかえってしまうと、みんな情報を摂取することだけには価値を感じなくなるので、そこになにかリアルの、現実の体験が加わらないと物足りなくなってくるんですね。だからすべてのエンターテイメントはイベント化、フェス化していくっていう。

やっぱり20世紀後半の数十年間か、この半世紀が例外的に、みんな情報を摂取することで余暇を潰していた時代ですよ。つまりそれは、過渡期だった。マスメディアしかない時代ってやっぱり過渡期の時代です。その頃に考えてみれば昔の人間もそんな生活をしていないわけで。単純にそれだけですよね。

もちろん、音楽も映像も極端に衰退したりはしないですよ。でも20世紀後半のような支配力はなくなるでしょうね。

だからこれからエンターテイメントの主役は、たとえば家族で楽しめる拡張型のスポーツ、ゆるスポーツや超人スポーツやe スポーツだったり、ハロウィン的なお祭りだったり、広義のイベントが伸びていくと思います。

わたし:虚構よりも、人々は現実を求めてきている、ということでしょうか。

宇野さん:虚構にもとめるものが変わってきたんでしょうね。

たとえば「ポケモンGO」がありますよね。あれは代表的なAR(拡張現実)ゲームですけれど、要するに街歩きを楽しくするためにゲームという、ポケモンという虚構が使用されている。僕は5年前に「リトル・ピープルの時代」(幻冬舎文庫)という本を書いたのだけど、そこで「ポケットモンスター」シリーズを、僕たちの虚構観の変化を代表するものとして位置づけています。

ざっくりいうと、マルクス主義の失敗からカリフォリニアン・イデオロギーの勝利までの数十年間のあいだ、虚構の機能は「ここではない、どこか」を仮構することだった。比喩的に言えばVR(仮想現実)的な虚構感ですね。対してインターネット以降は「いま、ここ」を多重化し、拡張していくことが虚構の機能として求められるようになった。AR(拡張現実)的な虚構感ですね。なので、大澤さんの時代区分にならって、僕は現代を「拡張現実の時代」と呼んでいます。当時の携帯ゲーム機のポケモンの消費のされ方に、その予感を感じて取り上げたわけです。

「ポケモンGO」をつくっているアメリカのナイアンティック社はもともとGoogleの子会社で、リーダーのジョン・ハンケはGoogleの元副社長ですね。Googleがネット上の文字情報の検索から現実そのものの検索に舵を切ったときの推進役のひとりです。

「ポケモンGO」のベースになったゲーム「Ingress」があります。あれをつくったときハンケは「ゲームの力で人間を外に出す」と言っていた。実際に僕はその少し前からウォーキングが好きで、一時期は一日数キロ歩いていたくらいなのだけど、Ingressでますますハマったところがある。でも数ヶ月でやめてしまった。それは「Ingress」のおかげで散歩のコツがわかったからですね。あ、こういうところに気をつけて歩けば面白いものがあるな、とか。そもそも動機の調達をゲームに頼らなくてよくなったこととか、ですね。でもこれはハンケの狙い通りだとは思います。僕みたいな散歩自体にハマってゲームから離脱するユーザーも結構いたんじゃないかと思う。

ただ「ポケモンGO」にはもう少し深く虚構が現実に侵食するかたちを期待したいですね。せっかくあの魅力的なモンスターたちがいるので。怪獣とポケモンは結構違いますよね。怪獣はやはり戦争や災害の比喩でできているのだけど、日本的な妖怪って生活の中にいるものですよね。油すましとかあずきあらいとか。日常の中の生活文化と結びついている。ポケモンは以前はJRPGのモンスターとしての側面がまだ強かったけれど、この「ポケモンGO」でかなり日本的な妖怪に近づいたと思います。まだまだこれからユーザー間のモンスター交換や、Ingress的な陣取りゲームの要素などが開放される可能性が高いと思うけれど、このモンスターたちがどこまで生活の風景に入っていけるかが肝でしょうね。要するに、あれはゲームをゲームの中で、画面の中で完結させるんじゃなくて、ライフスタイルに介入して変えていけるか、が勝負のゲームなので。

すっかり「ポケモンGO」の話になっちゃったけれど、これは『シン・ゴジラ』との対比にちょうどいいからで、まさに「現実 対 虚構」というこの映画のコピーに引きつけて話すと、現実というのはこの(拡張)現実の時代であり、Googleであり、「ポケモンGO」なんですよね。Googleというのは世界のすべてを検索可能にすれば現実世界が無限に面白くなる、という会社なので。で、虚構というのが、まあ人類社会の主役から後退しつつある劇映画という制度であり、この『シン・ゴジラ』という映画である、という見立てが面白いと思うんですよね。庵野秀明は戦略的に終わってしまった「映像の世紀」に留まっていると言えるわけです。

わたし:「これは、実写版エヴァだ!」という意見もありました。

宇野さん:いや、それは逆なんですよ。エヴァンゲリオンが怪獣映画っぽいんです。庵野さん本人が、3年前の特撮博物館のときに、エヴァンゲリオンのルーツは「ウルトラマン」と「巨神兵」ですという風に言っているんですが、要は、エヴァンゲリオンのルーツのひとつが怪獣映画なんです。

庵野さんは、昭和特撮の美学っていうものをアニメに持ち込んだ人だとも言える。逆なんです。エヴァがゴジラのような戦後怪獣映画に似ているんです。

今回庵野さんは人間の内面の問題を脇に追いやって、社会と政治を描いたわけでしょう? そこは「僕を救ってくれなかったエヴァへ」みたいなことをずっとブログに書いてきたような昔のエヴァンゲリオンのファンは不満でしょうね。ただ、僕は庵野さんの人物描写ってどちらかというと類型的で薄っぺらいことが多いと思うので、今回みたいに切り捨てたのは戦術的に正解だった気もするんですけどね。

ただ、それとは違う意味で、個人とその内面ではなく、世界の問題、具体的には政治と社会に舵を切ったことはこの映画をつくる上で非常に効果的な取捨選択だったと思う。それは言ってみればこの現実の時代にどう対応するかって問題ですよね。基本的に虚構と現実では現実が優位な時代に、残された虚構の機能は何か。それもGoogle的、ジョン・ハンケ的、ポケモンGO的「ではない」、20世紀的な劇映画に留まった範囲で何ができるか、と考えた結果が「ありえたかもしれないもうひとつの3.11」だったのだと思うんですよ。「まだ実現していないけれどこれからありえるかもしれない世界の可能性」を描く、というのはまだ必要と、というかこれからむしろ必要とされる想像力であり、それを提示するのは虚構の重要な機能だと思ってます。

もちろんまったく不満がないかっていうとそんなことはないんですけどね。それってこの世界と個人、公と私、政治と文学の問題に関係していて、ざっくり言えば『シン・ゴジラ』には前者しかなくて、旧エヴァには後者しかない。でもね、このふたつがちゃんと関係しあう物語も、現代的なかたちでできる可能性がこの『シン・ゴジラ』にはあったと思うんですよね。

たとえば押井守の『機動警察パトレイバー2 The Movie』という作品が僕は本当に好きなんですが、この映画はかなりアクロバティックな手法で個人と世界の問題をつなげて描くことに成功している。この映画の戦争と平和の対比はそのまま現実と虚構の対比で、要は映像という虚構を通じてしか共通体験をつくって社会を維持できない僕達の社会というか、人間と世界をつなぐ情報のあり方を問い直している映画なんですよね。

あれって93年の映画で、まさに90年代前半の新保守的なリアルポリティクスが力をもっていた時代ですね。この映画はそういった思想とは少し距離のある映画だけれど、題材的には近いものがある。冒頭でPKOで派遣された自衛隊の部隊が現地で襲撃されるのだけど、9条のせいで発砲が許可されずに全滅してしまう。そして生き残った指揮官が3年後に東京でテロを起こす、という物語なんですよね。

これって『シン・ゴジラ』で近いシーンがあったでしょう? だからもう少しがんばれば世界と個人、政治と文学、公と私を両方というか、そのつながりも描くこともできたと思う。もちろん、現代的な形でね。たとえば『機動警察パトレイバー2 The Movie』はまさに「映像の世紀」の物語で、映像論だから、現代に当てはめると前提が変わってしまっているところがある。『シン・ゴジラ』的なアプローチの延長線上に、現代的な世界と個人、政治と文学の関係を描き問いなおす、ような映画を庵野さんがチャレンジするのも面白いと思う。だから僕にとって『シン・ゴジラ』は90点の映画。のこり10点はのびしろですね。次や次の次にも期待したいって意味ですね。

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わたし:ちなみに、宇野さんは大の特撮ファンとしても知られていますが、今回の『シン・ゴジラ』は特撮ファンとしても、満足できるものでしたか?

宇野さん:そうですね。ミニチュア特撮っていうのはもうやはり昭和の、20世紀半ばのテクノロジーで、この先は基本的には衰微していくものだと思うんですね。ただやはりまだミニチュアでないと出せない質感もあるし、ミニチュアを使うことで開拓されていった質感や表現、美学っていうものがあるわけですよ。その美学をCGの時代にどう再現するか、活かすかっていうものを今回のスタッフはきっちり挑戦していたんじゃないかな。僕はそう解釈していますね。

わたし:最後に『シン・ゴジラ』は海外でも公開されていますね。この映画がそうなるかは分かりませんが、海外で評価されるような邦画作品は今後出てくると思いますか?

宇野さん:可能性は低いかもしれないけど、ハリウッド作品と並ぶような邦画が日本からも出てきて欲しいなぁとは思いますね。

それは同じ日本人だから、とかではなくて、戦後日本の培ってきた「オタク」だったり「カワイイ」だったりするユニークなサブカルチャーの文脈っていうものがどこまでいけるのかを見てみたいなという気持ちがね、思春期にその洗礼を受けた一人としては思っていることですね。

 
  • 主演:長谷川博己 竹野内豊 石原さとみ
  • 脚本・総監督:庵野秀明「新世紀エヴァンゲリオン」
  • 監督・特技監督:樋口真嗣『ローレライ』『日本沈没』
  • 上映時間:120分
  • 公開日:2016年7月29日(金)全国東宝系にてロードショー
  • 公式サイト:http://www.shin-godzilla.jp/index.html
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